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院長のコラム第23回 新幹線開業50周年

10月1日朝、朝日新聞 天声人語を読みました。≪「汽笛一声新橋を・・・」で始まる「鉄道唱歌」はよく知られている≫、で始まります。・・・・。≪(新幹線に対して)ありがとうは尽きないが、競うような速さよりむしろ確かな安全で応え続けてほしい。時間よりも「無事は宝なり」である。≫、と結ばれています。

故 島 秀雄さんを思い出しました。私が、島さんの事を知ったのは、1998年週刊新潮 ≪墓碑銘 新幹線の生みの親  島秀雄さんの「技術者精神」≫の記事です。島さんは戦前から各種車両を手掛けてきた国鉄の設計技師でした。

記事を紹介(要約)します。
昭和39年10月1日、東海道新幹線開業の式典に、東海道新幹線の生みの親・島さんの姿はありませんでした。その前年に国鉄を辞めていました。「世界の三馬鹿、万里長城、戦艦大和、新幹線」と言われ、国鉄内でも「空想集団」と新幹線に反対意見の強い中、新幹線開業に向かって組織をリードしてゆきました。
10月1日、数キロ向こうを走る新幹線を自宅の窓から眺めて、「ほら、走ったじゃないか」と、奥様に言われたそうです。

島さんは十ある技術a八で作ったと述べている。

「新幹線を技術の実験場に絶対するな、使わなくてもすむ技術は使うな、とおっしゃっていた。わざわざ旧式の技術を使った箇所もあるくらいで、安全、保守点検のため経験豊富な技術を使った」(入江)。
「最近の新幹線は気にいらなかったようですね。二階建てや流線型にしてスピードをだす。オレだってそんなのやろうと思えばできる。でもそれよりも安全確実で、しかも安く走るものを作った。また今はどんどん田舎まで延び、ミニ新幹線と称してカーブも踏切もある場所を行く。せっかく事故がないよう踏切をなくしたのにと、それも不満だった」(次男 隆さん)。
「父は全体がバランスよく働き、どこか一部が先に壊れるのは駄目だと考えていた。だからどこかが悪くなったのではなく、だんだん食べられなくなり体全体が衰弱していったのは、本当に父らしい。大往生です」(四男 直さん)。

新幹線の死亡事故、50年間ゼロ、あの世で島さん、喜ばれていると思う。

「安心、安全な医療の実践」を改めて思います。